山一證券

山一證券は、その昔(1897年-2005年)、日本に存在した証券会社をいいます。営業当時、野村證券、大和證券(現・大和証券)、日興證券(現・SMBC日興証券)と共に、四大証券の一角(業界4位)を占めましたが、バブル崩壊による損失の先送りを原因とした巨額な簿外債務が発覚し、1997年に経営破綻しました。(1997年に自主廃業、2005年に解散)

ちなみに、山一證券の「山一」という名称は、創業者の小池国三(1866年-1925年)が師事していた、実業家で政治家の若尾逸平(1821年-1913年)の家紋である「山に一」を社章にしていたことに由来するそうです。

山一證券の沿革

山一證券は、明治から平成の一世紀(1897年-1997年)の間、大手証券会社(総合証券会社)として一世を風靡しました。

・1897年に山梨県出身の小池国三が東京株式取引所仲買人の免許を受け、小池国三商店を開店(実質的な創業)。

・1907年に株式仲買として成功し、小池合資会社を設立。その後、証券業者として初めて公社債引受業務に進出。

・1917年に小池合資会社を解散して、新社長の元で「山一合資会社」を設立。

・1926年に「山一證券株式会社」へ改組。金融恐慌では、三菱銀行の援助で乗り切り、1935年に株式引受業務にも進出。

・1943年に山一證券と小池証券(小池国三の小池銀行が改組)が合併し、新しい山一證券が発足。

・1964年に証券恐慌で経営危機に陥り、日銀特融を受ける。1969年に大規模リストラや市況回復などが追い風となり、特融を完済して再建完了。

・1987年-1990年のバブル期は、毎年1,000億円以上の経常利益を上げ、栄華を極める。

・1997年にバブル崩壊による損失の先送りを原因とした巨額な飛ばし(簿外債務)が発覚し、経営破綻に陥り、自主廃業を決定した(負債総額は約3兆5千億円、1998年3月に営業活動停止)。

・1999年に東京地方裁判所より破産宣告を受け、その後、2005年の債権者集会をもって終了(解散)。

※山一證券の破綻により、日銀特融で1111億円が焦げ付いた。

山一證券の概要

山一證券は、営業当時、法人関連業務に強く「法人の山一」と呼ばれ、多くの日本の大企業の幹事証券会社となっていました。また、日本の証券業界においては、戦後の一時期まで最大の業績を誇る証券会社でしたが、1950年代から野村證券など他社に抜かれ、1965年の日銀特融以降は「四大証券」の中で四番手でした。

なお、企業グループとしては、芙蓉グループと緊密な関係にありました。(以下は、在りし日の企業概要)

商号 山一證券株式会社
〔Yamaichi Securities Co., Ltd.〕
創業-解散 1897年-2005年
本店所在地 東京都中央区日本橋兜町12番1号
事業内容 証券業
主要子会社 山一信託銀行
山一證券投資信託委託
山一投資顧問
山一情報システム
上場 東証1部・大証1部・名証1部(8602)

山一證券のその後

山一證券が1997年に破綻後、グループの主要会社は、以下のようになりました。

●山一證券

従業員や店舗の大多数は、米国のメリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。その後、同社のリテール部門が三菱UFJフィナンシャル・グループとの合弁企業である「三菱UFJメリルリンチPB証券」に移管された後、三菱UFJとメリルリンチの合弁解消に伴い、現在は「三菱UFJモルガン・スタンレーPB証券」となっている。

●山一證券投資信託委託

三和銀行に譲渡されて「パートナーズ投信」となり、2005年に三菱投信と合併して「三菱UFJ投信」となった。その後、2015年に国際投信投資顧問と合併して「三菱UFJ国際投信」となった。

●山一信託銀行

オリックスに譲渡されて「オリックス信託銀行」となり、2011年に「オリックス銀行」に改称された。

●山一投資顧問

フランスのソシエテ・ジェネラル傘下に入って「エスジー山一アセットマネジメント」となり、その後、合併が繰り返され、現在は、フランスのアムンディ・アセットマネジメント(世界有数の運用会社)の100%子会社「アムンディ・ジャパン」となっている。

●山一情報システム

山一情報システムの社員は、「日本フィッツ」に移籍し、また日本フィッツは、2004年にCSKの子会社となった。その後、親会社のCSKは、2011年に住商情報システムと合併して「SCSK」となった。

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