ブラック・ウェンズデー(暗黒の水曜日)

英語: Black Wednesday
分類: 通貨混乱

ブラック・ウェンズデー(暗黒の水曜日)は、「ポンド危機」とも呼ばれ、1992年9月16日(水)にジョージ・ソロス氏率いるヘッジファンドのポンド売りに対して、イギリス通貨当局がその攻防に完全に敗れ、ポンドが事実上のERM脱退となった日をいいます。

ここでは、世界の経済史に刻まれた「ブラック・ウェンズデー」について、簡単にまとめてみました。

目次:コンテンツ構成

ブラック・ウェンズデーの概要

当時(1992年)、外国為替市場において、イギリス経済が低迷していたにも関わらず、ポンドが過大評価されていました。

これに目を付けたジョージ・ソロス氏率いるヘッジファンド(クウォンタム・ファンド)がポンドを売りの標的に定め、実際に巨額のポンド売りを仕掛け、イングランド銀行などの防戦を見事打ち破って、大幅なポンド安に追い込むことに成功し、「ブラック・ウェンズデー」となりました。

ブラック・ウェンズデーの背景

1990年代初頭のイギリスは、1989年の東西ドイツ統合、欧州経済共同体の域内資本移動の活発化による資本流出、欧州各国の不況、サッチャー政権を初めとした各国政府の財政健全化策の影響などにより経済成長が後退し、失業率が上昇を見せ始めていました。

その一方で、欧州の金利は高目に推移したことで、欧州の各国通貨の増価(通貨高)をもたらし、ERMによって欧州通貨と連動していたポンドも次第に過大評価されるようになりました。このような状況の中で、イギリスはERMに従い、自国通貨ポンドと欧州他国通貨との相場を、将来の欧州共通通貨(ユーロ)の導入に向け、一定範囲に固定する政策を取っていました。

そして、1992年にマーストリヒト条約が調印され、その中で「政治統合無しの通貨統合を行う」と謡われていたため、将来的にユーロ導入が進むことで、ユーロ採用国が自国経済調節のために打ち出す金融政策の柔軟性は失われていくことが予見され、そこに「相場は必ず間違っている」が持論のジョージ・ソロス氏が目を付けたのが始まりでした。

<ソロス氏の視点>

「イギリス経済に比べて、通貨のポンドが政府により無理に高く固定されており、明らかにおかしい」

ブラック・ウェンズデー前後の展開

1992年9月にヘッジファンドと通貨当局との間に激しい攻防があり、ブラック・ウェンズデーが発生しました。

・1992年9月:ポンドへの売り浴びせは激しさを増していった
・1992年9月15日:激しいポンド売りにより変動制限ライン(上下2.25%)を超えた
・1992年9月16日:イングランド銀行がポンド買いの市場介入に加えて、公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらに同日中にもう一度15%に引き上げたが、それでも売り浴びせは止まらず、事実上のERM脱退となった(ブラック・ウェンズデー)
・1992年9月17日:ポンドは正式にERMを脱退し、変動相場制へ移行した
・1992年9月以降:ポンドは1995年まで減価を続けた。また、1993年には欧州各国に通貨危機が飛び火し、ERMは大幅な再編を迫られることになった

ブラックウェンズデーのその後

この一連の取引(ポンド売り浴びせ)により、ジョージ・ソロス氏率いるクウォンタム・ファンドは、10億~20億ドル程度の利益を上げたと言われます。また、最終的に売り浴びせに負けたポンドは、欧州為替相場メカニズム(ERM)を脱退し、変動相場制へと移行することになりました。

なお、イギリスがERMを脱退し、ユーロ導入を断念して以降、イギリス経済は1993年から2008年まで長期に渡って、失業率の改善や安定経済成長、安定インフレ率を実現することになりました。

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