千代田生命保険

千代田生命保険は、1904年から2000年まで、日本に存在した生命保険会社です。

営業当時、大手生保に次ぐ、独立系の中堅生保でしたが、1980年代後半のバブル期の積極展開が仇となり、1990年代には不良債権や逆ザヤなどに苦しみ、生き残りを賭けてリストラや再建を進めましたが、2000年に経営破綻しました。

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千代田生命保険の概要(経営破綻)

千代田生命保険は、明治から平成の一世紀(1904年-2000年)の間、大手生保に次ぐ中堅生保として一世を風靡しましたが、日本のバブル崩壊の波(金融システム不安)に飲み込まれて、2000年に経営破綻しました。

ちなみに、千代田生命の本社は東京都目黒区に置かれていましたが、破綻後に目黒区に本社(敷地・建物)が売却されて大規模改修が行われ、現在、目黒区総合庁舎になっています。

経営危機に陥った要因

千代田生命がバブル崩壊後、経営危機に陥った要因として、
(1)1980年代後半に高利率・高配当の貯蓄性商品で資産が急拡大したこと
(2)高利回りを確保するため、不動産関連やノンバンクなどリスクの大きい資産運用に傾斜したこと
(3)大口の企業保険契約の見返りに株式を大量に購入したこと
などが挙げられます。

戦後最大の経営破綻(当時)

千代田生命は、2000年10月8日に更生特例法の適用を申請し、経営破綻しました(従業員1万3013名)。

当時、生命保険会社として「金融機関等の更生手続の特例等に関する法律(金融版会社更生法)」申立の第1号であり、負債は保険契約に基づく準備金が2兆6413億円、同準備金以外の債務が2953億円の合計(負債総額)2兆9366億円で、戦後最大の倒産となりました。

なお、千代田生命が破綻してからすぐの2000年10月20日に、協栄生命が負債総額4兆5296億円で経営破綻し、これが戦後最大の倒産となっています。

千代田生命保険の沿革(1904年-2000年)

千代田生命保険は、1904年に福沢諭吉門下の門野幾之進(初代社長)が中心となって、日本初の英米相互組織(相互会社)として設立され、長い歴史を経て、2000年に経営破綻しました。

千代田生命の成長・拡大

千代田生命は、戦前は、五大生命保険会社(明治、帝国、日本、第一、千代田)の一角を占め、また戦後も、業界の先駆的役割を担うなど順調に成長し、大手生保に次ぐ中堅生保に位置しました。

そして、日本のバブル期には、不動産関連や株式投資への融資を積極的に進め、業容は急拡大し、ピーク時の1992年3月期は年間収入1兆4991億円を上げると共に、総保有契約高60兆円を突破しました。

・1904年:日本初の相互会社として設立
・1948年:業界初の団体定期保険を発売
・1950年:業界初の団体年金保険を発売
・1961年:業界初の団体信用生命保険を発売
・1973年:海外3大保険グループと業務提携
・1992年:最高収益、総保有契約高60兆円を突破

千代田生命の経営危機

千代田生命は、バブル期の積極経営が災いし、バブル崩壊後は不動産向け融資の不良債権化や株式担保融資の担保割れなどが発生し、不良債権額が毎期ごと増大する一方で、景気低迷と低金利政策の下で予定利率を運用利回りが下回る「逆ザヤ」現象が続きました。

そして、1990年代後半の金融システム不安で、同社も信用不安が増大し、1999年に経営危機に陥り、メインバンクの東海銀行や独大手生保のアリアンツなどへ経営支援を要請するもうまくいかず(自主再建を断念し)、2000年に更生特例法の適用を申請し経営破綻しました。

・1999年:経営危機で支援要請、リストラ推進
・2000年:更生特例法の適用を申請し経営破綻

千代田生命の破綻後

千代田生命の破綻後、その保険契約は、2001年にAIGスター生命保険へ包括移転されましたが、2011年にプルデンシャル・ファイナンシャルがAIGスター生命保険を買収し、その後、2012年に傘下のジブラルタ生命保険へ吸収合併され、同社に承継されました。

・2001年:千代田生命の保険契約がAIGスター生命へ包括移転
・2011年:プルデンシャル・ファイナンシャル(Prudential)がAIGスター生命の株式を取得し子会社化
・2012年:Prudential傘下のジブラルタ生命がAIGエジソン生命とAIGスター生命を吸収合併し、新「ジブラルタ生命」としてスタート(現在に至る)

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